2019311

やれ何十年のうちに何%の確率で起こるって色んな場所で言われているけど


あの時わかったはずだ。

この島国が凄い場所の上に在って

どこで災害が起こってもおかしくない

「ここは大丈夫」「自分の所は来る訳ない」「想定外でした」じゃ手遅れだという事。


今でも俺はあの時の起きていた現実が頭のどこかに焼き付いてる。

今まで経験したことのないあの揺れを、あの光景を。


あの時に繋がっていたネット、SNS上ではさまざまな情報が交差し

どれが嘘でどれが本当か自分で見極めなければならなかったし、

俺らがやってる事は何の役に立たないのかってあの瞬間

トップレベルに居る影響力がある憧れた人達、無力だと感じるのだから

アンダーなもっと小さな俺達は言うまでもなくもっと痛感していたし。

本人達が他人に言われなくても一番解ってる。

目の前で起きてる映画みたいな非日常の最悪の世界。


2011年3月11日14時46分、

生まれて初めて経験したあの揺れはまるでこの世界が

ていうか地球が壊れたんじゃねぇかっていうくらい揺れて

車も電車もダメ 部屋もぐしゃぐしゃ。

直後はしばらく家族、友達つかない連絡。

続く余震、最初の揺れからしばらくは車酔いの酷い状態。

TVをつけたニュースに唖然。


それからしばらく余震ありすぎて敏感に

どきっと身構えても

体感で震度が大体分かるようになってるとか

もう聞きたくない位トラウマになった警報。

ガスタンクが爆発して風圧が自分の家の窓まで届く。


今、思い返して出てきた事をこうして書きだしても、

俺の目の前の世界で起きた事だけでも異常だ。


後に俺が育った場所も液状化に津波も来た。

バンドと両立で職人の仕事をしていたから、

直しにいったりボランティアにも参加したりしていた。


震災から数か月後、被災地の足を踏み入れた。


東北の友人。

あの時、俺宛に真っ先に「にげて!!!!!」と送ってくれていた。

震災発生から数日後、

自分の方が絶対やばい状態なのに

「近くにいる人(家族や恋人とか近しい人達がいるなら)の手を離さないでいてあげて」

と言ってくれた。


そんな友人が

「生まれ育った場所の今を俺に見て欲しい。」と言ってきた。

それ以外に、

久しぶり顔を見たいとか何も娯楽がないからギター聞きたいだとか色々話した。

正直、俺の中で葛藤も色々感じて思う事もあって躊躇する部分もあった。

発生直後、その後もあんな事を言ってくれたそんな友人だから行ったんだと

今でも思う。


そしてある程度親しくして内面を知っている周りの人達

バンドマン界隈やそれ以外の色んな多方面の友人、仲間で

色々覚悟持ってる人達、当時のメンバーとか。

賛同して来たいと手を挙げてくれた人達と物資とアコギだけ持って向かった。


想像や覚悟していたけど

それを簡単に打ち砕く程の、簡単に超えてくる程の、あの光景や出来事は

俺の中に、共に行った人達に今でも残っていると思う。

俺も良くも悪くもその時の事、経験は価値観をぶっ壊されてひっくり返された。

行った者じゃないとわからないこともあるし、

光景、出来事を細かくなんて語りつくせないし

言葉に当てはめても安くなるし

そんな容易い事でもないし野暮じゃないから最低限かける事だけ。


TVじゃ放送されない現実。目の前だけの世界だけでも氷山の一角。

あの時、自分の信念や正義を貫いた、貫こうとしたメディアの人も少なからずいると思う。

そういう一部の人達以外のメディアは政府と同じように俺は糞にしか見えなかった。


最低限だけじゃなく分け与えるじゃなく買い占める。

被災地の物資足りてないのに何故、受け付けない?

長年言ってた「安全です」からの「想定外」

もうここのあれは食べれない もうここも○○シーベルト。

店屋に漁師に農家を絶対ちゃんと誠意と言いう名の保証を。

大理石の上歩いてる政治家達より2tトラック運転して物資届ける一人のお笑い芸人。

当時の都知事は「これが天罰」、俺はその言葉忘れんぞ。


これが今ぱっと思い出すあの頃の印象や感じたこと

今でも当時とあまり変わらず疑問符な問題もあるけど。



その中の良かった出来事の方で

その時に行ったのがきっかけで、沢山の出会いや触れ合いが出来た事。


それから、たった一回だけじゃ駄目だと思った俺の気持ちと

言うてしまえばよそ者で無名である自分に感謝の言葉さえ言ってくれた人達

そのおかげで一年に一度のペースで交流やらイベントやらしていただいて

そういうご縁もあの時呼んでくれた友人もあの震災で出会った人達に感謝している。


あの頃とはバンドも変わってしまったけど今のバンドを

昨年から活動したけど、今のメンバーもあの震災でそれぞれの考えや想いがあるメンバーで

正式に活動開始する直前に昨年3月11日を迎えて、イベントにメンバーと行って

このバンドで初めて作った曲を演奏させていただいた。


交流が出来た前向いて笑う素敵な人達への、人達との曲を書いた。

とても優しい歌。

何も知らない人はV系出身なのに今のバンドはシンプルだと思うだろう。

基本ROCKしてるけどなんか優しいとか今までよりPOPで大人しいだとか言われる。


当時出逢って色々な話、現状を話してくれたり場所を案内して説明してくれたり

知り合った人達は、小学生からおじいちゃんおばあちゃんまで老若男女。

バンドである事を活かしながら、聞いてもらえる曲ある必要があった。

その上でV系だったからこその引き出しを持ちながら一周回ってて的な。

優しく寄り添える曲が多い。今のバンドのベースというか基盤になっている。


その曲を演った時に、涙ぐむ人が居てくれた事や

聞いてくれたおばあちゃんが終わった後、俺ら一人一人の手を握って

「ありがとうね。ありがとうね。これからも頑張って。」って言ってくれた事とか、


あの時、避難所の邪魔にならない所でアコギを弾いてた時、

興味を示して近づいてくれた中高生の子たち

ギター教えたり好きなアーティスト聞いて弾いて一緒に歌ってくれて

色々な話をしてくれた子達、

今では地元に役場に就職した子とか進学、社会人になった。

その中に楽器に興味持ってそのままギターにハマり夢を追いかける子もいて。

「あの時、唯一の娯楽で楽しくて覚えてる」とか言ってくれて。


なんだろう。何も出来ないけど

むしろあの頃も今もこっちが元気や勇気や真心いただいてて。

変わらず俺が今でもこうしてる理由や活力、やり残した事とか

うまく言えないけど定義、葛藤だとか意味だとか

現在の俺自身の中のそういう深い所で大きな基盤になっているし、


あの時の震災から

衝撃やら現実や怒りや悲しみや

見たものや感じたこと


俺自身しっかり考えながら、

今を生きていることの幸せと有り難みを噛み締め、

毎日を大切に俺なりに俺にも出来る事があると信じ

変わらずやっていきたい。

とても小さく微力ですが、 続けていけたらと思います。




震災により犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致しますとともに、

被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。


8年が経った今も多くの方が避難生活を送っていらっしゃったり

いろいろな問題がありますが

一刻も早くかけがえのない日常が取り戻せますよう

1人でも1日でも早い復興を祈っています。